第3回里山シンポジウム開催
- satoyama chikuhoku
- 8月26日
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更新日:8月27日

令和7年8月11日 山の日
直前までの雨が嘘のように上がり、「筑北地域の里山を活かす 第3回里山シンポジウム」が開催されました。
<現地見学>
午前9時、坂北駅前から、いざ青柳城へ!
「青柳城址はなぜ県史跡に指定されたか?」をテーマに、村の内外より11名の方が参加されました。


青柳城山へ行くには、善光寺街道青柳宿を通過します。駅を出るとすぐに青柳宿を説明した案内板があります。青柳宿は戦国時代、青柳氏の城下町をもとに整備されました。


青柳宿には3カ所に宿場を説明する案内板が設置されています。
さて、この写真、参加者の皆さんは何を見ているでしょう?

街道からちょっと田んぼのあぜ道に入って眺めると、宿場の家並の奥に青柳城山が良く見えるんです。

青柳公民館で講師の太田秀保氏と合流。これより戦国時代の遺跡についての説明がありました。


奥に見えるのは青柳城山。てっぺんの赤松の古木がシンボルです。その手前の赤い屋根は清長寺。もとは青柳氏の居館があったところです。さらに手前には、侍屋敷が連なっていました。今も屋敷の遺構がそのまま残っていることから、これらすべて県の史跡に指定されています。

いよいよ登山道。ボランティアが整備したばかりの道を登っていきます。

登山道整備はまだまだ手が回らないことだらけ。松くい虫の被害木が倒れる中、黙々と登っていきます。
ようやく尾根に上がりました。心地よい風が吹いてきます。
登山道を登りきると、三の廓(くるわ)に出ます。城山の尾根は218mにわたり8つの廓と7つの堀切が造成されています。廓は「曲輪」とも書きますが、平地に造成され、段差を設けながら防御を巡らしています。
主郭は城山の西最先端にあり、標高907m。四阿屋山(標高1387m)の西北の尾根先として岬のように突き出ていることにより、青柳城山は筑北盆地を一望できるため、絶好の位置に山城を構えたことが良く分かります。


青柳城の特徴として次々と城主が変わったことが挙げられます。青柳氏が築き、武田信玄の弟、信繁が手を加え、上杉氏との攻防があり、後に小笠原氏が防御を増して上杉氏と対峙しました。
主郭の石積みは「布目積み」といい、松本城主小笠原貞慶によるもので、往時の様子がよく残っています。

<車座集会 ~守って活かす青柳城址~>
青柳城山を下りた一行は、お昼を公民館でとりました。疲れた足を延ばして、弁当を広げると、地元の青柳宿「切通しの会」の女性たちによる有難いお汁の提供!山歩きの疲労はいっぺんに回復しました。
午後は、「守って活かす青柳城址」と題した車座集会です。地元からの参加者を加えて、皆で車座になって意見を述べ合いました。


車座集会は木曜会会長 関川修次の進行で始まりました。
松本市の山辺歴史研究会から参加された会長の武田善徳さんは、国史跡に指定された林城での活動の話しも交えながら、青柳城へ登った感想を述べられました。
麻績村から参加の山崎芳伸さんは、里山登山が好きであっても一人で安全に登ることができる里山は、案外少ないという実情をご自身の体験を交えて話されました。
安曇野市明科の滝沢秀一さんも街道や山城など歴史が好きで、今回のイベントに満足された様子。今後もこのような機会を続けてほしいとのエールをいただきました。
とは言え、やはり道の整備が山城の命。持続可能な登山道の管理について、地元から課題が提起されました。
最後に今回の講師である太田秀保さんから、「なぜ青柳城址が県史跡に指定されたか」という点に触れながら、青柳城山と周辺の支城との関連にこそ、この地域の戦国時代における特異性がある、その歴史的価値を発信する必要を提起され、筑北地域の里山活用にとって、大きな方向性を見出すことができました。
第3回里山シンポジウムは、青柳城の価値を次代につなげるためのヒントを得て終了しました。木曜会のメンバーは、またボランティアで参加された皆さんも、登山道整備で流した汗は、価値ある汗であったと確認したことでしょう。
確実に一歩前進した「松枯れの青柳城山再生プロジェクト」。今後は自分たちが案内人となってガイドツアーを開催します。オリジナル御城印ゲットの特典付き!近日中に参加者を募集します。


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