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筑北の戦国時代

川中島合戦前後の激戦地

​​​総面積133.85㎢の約8割が森林である筑北地域には、青柳城、麻績城のほかにも10カ所に山城が散在し、そのほか砦や見張り・のろし台、武家の館跡など、狭い地域に戦国ワールドが数多く残っています。なぜ、筑北地域に史跡が密集しているのか?それはこの地が川中島合戦の直前と、その後に起こった大勢力の接触部になってしまったからです。

 

  

青柳城は松本城主小笠原氏の家臣 青柳清長・頼長が、麻績城は葛尾城主村上氏の家臣 服部清信・清正が築城しました。筑北地域の城主たちが戦乱の嵐に巻き込まれたのは、甲斐武田氏の信濃侵攻によります。青柳氏は武田氏に降伏し、服部氏は村上氏と運命をともにし、上杉方につきます。

麻績城山(左)とのろし山(右)

麻績城山(左)とのろし山(右)
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青柳城二の廓

青柳城二の廓

 川中島合戦の直前 

*『高白斎記』によると、武田晴信(信玄)が青柳城に入城したのは、天文22年(1553)4月15日。坂城の村上義清を落城させ、麻績城主服部清正とともに越後の長尾景虎(上杉謙信)の下へ敗走させた6日後のことです。これを機に、武田氏は善光寺平(川中島)へ進攻するため、青柳城を弟の典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)に改修させて拠点としました。そして麻績・青柳・大岡方面を平定し、青柳頼長に領有させたのです。


*『高白斎記』;戦国時代、武田氏家臣駒井政武(高白斎)が記した甲斐武田氏に関する日記といわれる。

 川中島合戦のころ 

天文22年4月22日「八幡の戦い」にて第1回川中島合戦が始まります。これより麻績・青柳は長尾(上杉)氏・武田氏の激しい争奪戦の場となります。9月3日には長尾景虎(上杉謙信)が青柳城に放火し、会田の虚空蔵山城まで攻め落としますが、10日後には武田勢が麻績城を夜襲戦で焼き落として、長尾勢は筑北から退去します。合戦場は北信濃へ移り、やがて永禄4年(1561)の大激戦となりました。

川中島古戦場八幡社の武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像

川中島古戦場八幡社(長野市)の武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像

 川中島合戦の後 

天正10年(1582)3月武田氏滅亡により織田信長が信濃国を支配しました。それもつかの間、6月2日には本能寺の変で信長自刃。再び信濃国は無法地帯となり、筑北地域は北信濃からの上杉景勝と、松本からの小笠原貞慶が接触する争奪の地となりました。天正11年(1583)4月からの一年間で青柳城と麻績城の取り合いは4回繰り返されました。この時、青柳城は小笠原氏により大改修が成されました。

 青柳氏と麻績氏の滅亡 

天正10年8月、上杉勢の筑北攻めにより麻績城主に返り咲いた服部清正でしたが、翌年の4月、徳川方に属した小笠原貞慶に内応したとの理由から、上杉景勝勢に生け捕られ、裏切り者として磔に処し、見せしめとされました。

麻績服部清信の供養塔

麻績服部清信の供養塔

天正12年4月、上杉勢はにわかに軍勢を修めて海津城(松代)に帰陣。この時、筑北地域の戦国時代は終わりました。青柳頼長は青柳城に復帰し、麻績まで領有します。その平穏も長くは続かず、同15年9月貞慶の招きにより青柳頼長・長迪(ながみち)父子と家臣たちは、松本城に出仕したところで謀殺されました。武田氏へ寝返った青柳氏への貞慶の恨みと伝わっています。

青柳頼長が中興開基した龍澤山碩水寺

青柳頼長が中興開基した龍澤山碩水寺

宿場町としての戦後復興

 家康の街道整備 

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長6年(1601)全国支配の政策としていち早く五街道の整備に着手し、宿駅制度を定めます。街道に宿場を置き、人足と馬を一定数常備させ、幕府公用の人や荷物の運搬に当たらせました。

善光寺街道は慶長19年(1614)に整備された中山道の脇往還(五街道に準ずる脇道)です。戦火で荒廃した青柳氏と麻績氏の城下町は、そのまま善光寺街道の宿場町として復興しました。

太平の世となり、戦国時代の青柳城と麻績城は、宿場町の里山として、薪炭の燃料材の採取地など人々の生活と密接なかかわりを持ちながら、新たな歴史を刻みました。

青柳宿の石組み用水路

 青柳宿の石組み用水路

麻績宿と姨捨山

麻績宿と姨捨山(冠着山)

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